静岡県富士市生まれ。
72年、チリ音楽祭をきっかけにシンガー・ソングライターとしてデビュー。
以後、作曲家としての活動を中心に、83年、杉山清貴&オメガドライブ「サマー・サスピション」等で、東京音楽祭の国内・国際部門において最優秀作曲賞、84年ベスト・コンポーザー賞に輝く。
上田正樹「悲しい色やね」を筆頭に83年より5年連続日本作曲大賞優秀作曲賞、87年稲垣潤一「思い出のビーチクラブ」で同作曲大賞を受賞。
その他、杏里「悲しみがとまらない」、竹内まりや「セプテンバー」、中森明菜「北ウイング」等、数多くの作品を提供その数は1500曲以上にものぼる。

また、映画「ハチ公物語」「遠き落日」「宮澤賢治 その愛」「大統領のクリスマスツリー」「釣りバカ日誌13」、TVドラマ「人生は上々だ(木村拓哉/浜田雅功)」「ブランド(今井美樹)」、「恋するトップレディー(中谷美紀)」などの映画音楽を手がけ、レオマワールド、鎌倉シネマワールド等の音楽監督、J リーグ・清水エスパル公式応援歌、テレビ、ラジオのコメンテータ、エッセイスト、そしてアーティストと幅広く活躍中。
 平成9年度、静岡県文化奨励賞を受賞。平成15年度、第58回国民体育大会・NEWわかふじ国体の式典総合プロデューサー就任。


 
   


 

 
 

ボクが国内チャートにヒットを送りこむ以前に、全米ビルボードTOP100にチャートインしたという事実は、コアなファンでもさらにコアなファンでなければ知らないと思う。  ジグソーは御存知のように「Sky High」のヒット曲で有名な英ポップロック・バンドだ。その曲は同盟映画の主題曲として、またプロレスラー、ビル・マスカラスのリング登場テーマとして日本では2度にわたってヒットし、いま現在も某車メーカーのCMに使用されるというお馴染みの曲。かわって彼らが歌ったボクの曲は、最近CD化されたぐらいで、決して彼らの代表作とはいえない。  しかしこの曲のリリースにいたっては、ボクにとっては忘れられない思い出がある。 まだシンガーソングライターとして駈出しだった70年代中期、ボクが契約するパシフィック音楽出版(現フジパシフィック音楽出版)で、何曲かの海外向けの楽曲デモテープを録音した。それらの曲がミデム音楽祭(仏カンヌで毎年行われている音楽出版社集会)に持ち込まれ、ジグソーのリーダー格であるスコットの耳に、このバラードが触れたところから話は始まった。当初は、人気グループだった彼らの、アルバム用の1曲として収められるということだったが、待てど暮らせどその便りは届かず。1年ほどしたある日その吉報は思わぬカタチとなってボクへ届けられた。 当時の音楽雑誌・編集長から「キミの曲がジグソーのシングルになるって?」という情報に、音楽出版に問い合わせても「そういう事実はない」という答えだった。ガセネタだと思っていたボクに、次回シングルである確実な情報が届いたのはそれから数日後のこと。 結局、ニッポン放送のスタジオでとったこの曲が、全世界へ発信されたのは2年程の歳月を要したことになる。全米ビルボード誌にチャートインした自分の名を見つけた時、信じられぬ想いで長い間その英字を見つめていた。全米93位、全英36位。 ちなみに、今だから話せる事実として、このデモ録音でボーカルをとってくれたのは、デビュー間もないボクの音楽仲間、大橋純子さんでした。


 
80年が幕を開けて、ようやくアレンジャーから作曲家としての活動に移行しつつあった初期のヒット曲の1つ。数ヶ月前にリリースされた竹内まりやの「セプテンバー」が好調で、その後を追うようにしてチャートインしたポップ・ナンバーだが、「セプテンバー」とはまったく違う制作アプローチでした。
 「セプテンバー」が、当時の音楽シーンを意識した分かりやすい書き方をしたのに比べ、「真夜中のドア」では、ディレクターの要求もあり、全く洋楽的な曲を書こうという気で作り上げました。
 アレンジしレコーディングが終わってみると、それなりの洋楽的仕上がりになったわけですが、歌入れしてみるとどんどん松原みきの世界になっていったのです。それほど松原みきの声は個性的で、少し鼻にこもった濡れた感じがセクシーでした。ややもするとアメリカ西海岸LAへ飛んで行ってしまいそうな曲が、見事国内産のポップチューンに変貌したのです。その結果、この曲のヒットは当時の音楽シーンにおいてベルエポック的な存在になったのです。
 いまでもレコード会社のディレクターなどから、「学生時代この曲を聞いて衝撃を受けた」「邦楽では初めて買ったナンバー」などと言われる機会が多く、この曲はその後の自分自身の活動に大きな影響を及ぼしました。

 ちなみにレコーディング・メンバーはDrs.林 達夫、Bass.後藤次利、E.Gt.松原正樹だったかな。
 最近では広瀬香美のアルバム「Thousands Of Covers」、エイベックスの DJユニットGTSのアルバム「Love Unlimited」、男女ユニットTiptory(cutting edge)のシングルでカヴァーされています。自分としてはTiptory のカヴァーが面白かったかな。全く別の解釈と原曲の要素がミックスして作られていて。


 
時間をかければいい曲ができる。巧妙に音楽的知識を駆使したからいいサウンドになる。といったことがあるわけではなく、たった5分ほどのインスピレーションに導かれて曲を仕上げたら凄くいい上がりになった、ということもままある。
創作のコア(核)になるインスピレーションがボクの脳の中でどのように湧き上がってくるのか、自分でもさっぱり分からない。本当に神の命で天から降ってきたように、「これだっ!」と、パッと自分の求めていたものが浮かんでくる瞬間がある。
 「ふたりの夏物語」は、そんなインスピレーションがあったわけではないけれど、JALの沖縄キャンペーンというCMタイアップが決まっていて、ほとんど1日で書き上げなければいけない状況があった。すごいプレッシャーだよね、そんなの。
で、「Only You〜君にささやくふたりの夏物語」という一節だけがキャッチコピーとして渡されたんだ。勿論、完成作にもあるように、こうした印象度のあるフレーズはサビにもってこなくちゃ、ということでまずサビから先に作った。後はAブロック、Bブロックといったように、それぞれのパートを作りつなぎ合わせに神経をちょっとつかった。ギター1本のデモテープで、それがいいんだか悪いんだか分からないままとにかく翌日には持っていった記憶がある。
レコーディングでは、当時はまだみんな試行錯誤しながらやり始めていたシークエンサーを駆使した「打ち込み」によるアレンジを初めてボクもやってみた。今では当たり前になったやり方だけれどね…。「打ち込み」なのにミュージシャンはスタジオ入りしているし、ホントどうすりゃいいのよ、といった感じだった。
そこでドラムとベースだけ打ち込み、来ていたドラムはフィルを、ベースには時折り入るチョッパー・ベースをやってもらった。それが幸いして面白い仕上がりになった。
ロビーにはCM関係の人が作品の出来を待っていてとにかく慌しく仕上げていった。
その出来立てのカラオケに、ツアー中の杉山清貴クンが急遽東京に戻りボーカルを入れて、トラックダウンして、ハイ完成!といった超スピーディーな作品作りだった。
正味3日間ぐらいで作っちゃったんじゃないかなー。その曲がオメガの最大のヒットになっちゃったんだから、分からないもんだね。


 
ボクの作品の中でも好きな曲です。
 この曲を書いた時のことは、いまでもハッキリ憶えている。作詞家の康珍化(カン チファと読みます)さんから、「悲しみがとまらない」と1ページ、「I Can't stop the lonlines 」と1ページに書いたA4の紙を手渡され、それをキーワードにサビを仕上げていったんだ。康さんとは数カ月前に書き上げた上田正樹の「悲しい色やね」で紹介されたわけだけれど、この作品のヒットもボクらのコンビを決定付けるものになった。
 プロデュースは角松敏生くんで、彼とはお互いがLAでレコーディングしている時に、偶然レストランで会って付き合いが始まったんだ。彼がプロデューサーとして素晴らしいのは、この作品にも言えることだけれど、そのアーティストに何が必要だということをニュートラルに考えられることだ。
アーティストの人がプロデュースすると、どうしても「自分が自分が」っていうことで、自分の作品を最優先してしまいがちなんだよね。ヒットさせる、っていう使命よりも以前に。その彼と、ボクのマンションで打ち合わせして、モータウンや フリーソウルのエッセンスを入れた曲にしようということになったわけ。ついでにアレンジもイントロのピアノのメロや、リズムの感じも伝えて、しっかりと彼はカセットにレコーディングして持っていっちゃった(笑)。
 杏里さんとは、レコーディングの時はじめて会ったわけだけど、会うまでボクは、彼女がファッションモデルだと思っていて、「エーッ!ちがいますよー」なんて言われてしまった(笑)。勿論「オリビアを聴きながら」は知っていたけれど、モデルの方が本職だと信じて疑わなかった。でも彼女のヴォーカルはのびやかで、この曲にはピッタリだったと思っている。もう1曲書いた「We are not alne」もいい出来上がりで、彼女自身もリメイクしてくれたほど気にってくれたことが作者としては嬉しかったね。